
ジオポリティカルな不安定性が増大し、そのリスク評価の複雑性から予見性も大きく損なわれる時代となっています。今ほど国や社会の強靭性(Resilience)について考えなければいけない時はないと思っています。野中郁次郎先生は晩年、国の総力とは外交(Diplomacy)、インテリジェンス(Intelligence)、軍事(Military)、経済(Economy)から成り、最終的にはそれにソフトパワー(Soft Power)が付け加えられ、その頭文字からDIME+Sとしてのレジリエンスを表現する概念を述べられています。われわれの視角は常にDIME+Sを総合的に意識して物事を判断することと、エーザイのビジネスはソフトパワーの中の中核たる人々の健康であって、その貢献を社会の強靭化の観点からも表現していく、意味付けをしていくことが大切だと考えています。その意味で、国防の予算と医療関連の予算とはトレードオフの関係にはなり得ません。共に国の強靭化の観点から、医療関連の領域における手抜きは許されません。
2013年から供給しているリンパ系フィラリア症治療薬(DEC錠:Diethylcarbamazine)は現在までにおよそ30億錠がエーザイ バイザッグ工場(インド)で製造され、グローバルサウス33か国にプライスゼロで提供されています。8か国でフィラリア症の制圧に貢献しました。
疾病の制圧という大きなベネフィットをもたらしていますが、このことはそれだけにとどまりません。インドはじめアジアのシーレーン(通商上・戦略上で重要な海上交通路)や石油はじめ重要物資を運ぶシーレーンに関わる海洋諸国の強靭化や太平洋島嶼国においては外交的意義、また特に国際機関における議決などの重要な局面において日本の国益に適う効果、このようにソフトパワーとしての力を発揮していると思っています。さらに、これからの経済の成長はアフリカや南米からもたらされますが、それらの地域における生産人口の増大にも役立つ、社会の強靭化に貢献しています。
世界の各地で戦争が勃発し、そのための軍事の強化の必要性が高まり、国の予算やインダストリーにおいても国防関連の重要性が叫ばれています。しかし先ほどのDIME+Sが訴える国の強靭化に則れば、ソフトパワー面での充実、IT、エンターテイメント、情報、カルチャー、そして医療も同時に強化する、重要視して取り組むことが大切です。軍事やインテリジェンスの強化を理由にソフトパワーの弱体化を招くことはあってはならないと考えます。
わが国のデモグラフィー(人口動態)を見ますと生産人口が減少し、少子高齢化が進むことでの危機が言われています。65歳以降を生産人口ではないと定義していることに疑問を感じています。いわゆる成熟社会が生まれてきていると捉え、この世代の健康維持・増大を考えることが必要ではないでしょうか。日本の死因は1990年代の循環器疾患や呼吸器疾患によるものから、がんと認知症が特に高齢者の死因となる構造に大きく変容しています1。官民ともにこれへの取り組みは進んできていますが、特にがん領域では2つの法制化(がん対策基本法 (平成18年法律第98号)及びがん登録等の推進に関する法律(平成25年法律第111号))のもとに治療体制や主要がん種に対する公費による検診が大きな成果を挙げています2。
一方、認知症は「共生社会の実現を推進するための認知症基本法(令和5年法律第65号)」が2023年に制定され、公費を用いた検診などがようやく緒に就いたところです。エーザイは1997年にアルツハイマー型認知症治療剤「アリセプト」を米国で発売して以来、認知症のパイオニアとして研究開発努力を続けて約四分の一世紀を経てアルツハイマー病の根本原因に作用する新しい薬剤である「レケンビ」を世に出すことに成功しました。この間、当事者様やご家族、医療専門家との交流を通じて、常に大きな励ましをいただいたことをありがたく感謝しております。認知症を治療でき、将来的な治癒をめざして挑戦することは社会に安心・安全をもたらす大きなインパクトがあります。認知症当事者様の社会復帰はもとより、看護の担い手であるご家族の就労機会の損失は計り知れないインパクトがあります3。
いま一つの重要なサステナビリティ貢献は薬剤安定供給です。生命や生活の質の確保に大きく関わる薬剤は、必要とする人々に安定して供給することが必要となります。そのための堅牢なサプライチェーンを構築していなければなりません。医薬品は、主要国が参加する医薬品関税撤廃合意により、長年にわたり実務上無関税で流通されてきましたが、昨今は、ジオポリティカルな理由で常に関税の対象とされるリスクにさらされています。これにとどまらず、天災、サイバーアタック、人にまつわる誤りなどいかなるリスクに対しても対応することが求められています。医薬品では一つの生産サイトで追加的に製造を実施するケースでも、そこで製造されたものの安定性試験をクリアして薬事承認を得る必要から最低でも2~3年を要します。
当該施設の問題に加え、在庫の保持やバックアップ生産場所についても常に準備しなければなりません。不断の点検と投資が必要になります。特に品質問題が発生すると生産停止、工場操業ストップ、回収などに繋がるケースも多く、安定供給ができなくなります。現代製薬産業においてグローバル安定供給することはトッププライオリティの重要課題となっています。
原材料調達、原薬、製剤、包装、検査、出荷とサプライチェーンが構成されますが、各々の長所を生かして自社生産、委託生産を組み合わせ、地理的に分散して構築されています。エーザイでも日本、インド、中国、英国の自社拠点に加えビジネスパートナーの生産拠点や得意技術を有する委託先を活用するケースもあります。医薬品のモダリティも刻々と進化し、生産ラインもそれに応じて整えていくことになります。市場予測と地政学的判断、技術装備の優先度を含めた投資決断が必要となっています。その意味でも我々は‘We are manufacturer’を現代的に全うすることでもサステナビリティ貢献を果たす所存です。
サステナビリティの言葉の重みは増し、ビジネスにおける現代的な重要な取り組みの全てをカバーするようになっています。エーザイは社の最も優先度の高い課題としてこれに取り組み続ける決意です。
代表執行役CEO
内藤晴夫

- 1. Nomura S, Murakami M, Rauniyar S et al., Three decades of population health changes in Japan, 1990–2021: a subnational analysis for the Global Burden of Disease Study 2021. The Lancet Public Health, 2025; 10, e321-e332
- 2. 厚生労働省, 2022年 国民生活基礎調査 がん検診受診率データ, Pref_Cancer_Screening_Rate(2007_2022).xlsx
- 3. Ikeda S, Mimura M, Ikeda M, et al., Economic Burden of Alzheimer’s Disease Dementia in Japan. Journal of Alzheimer’s Disease, 2021;81(1):309-319. doi:10.3233/JAD-210075