養生とは肉体ならびに精神の安定をはかることによって健康を保ち、日頃から病をよせつけないような体を維持することです。江戸時代後期に養生を尊ぶことが盛んになり、さまざまな養生書が刊行されました。中でも貝原益軒(1630-1714)の『養生訓』(1713年)は有名でした。
江戸時代の後期まで人体の解剖は死者を冒とくすると考えられ、医師にも認められていませんでした。 医師の山脇東洋は、かねてより中国医学の五臓六腑に疑問をいだいていましたが、許可を得て人体解剖に立ち会い『蔵志』として出版しました。これが契機となり各地で解剖が行われるようになりました。『解体新書』の翻訳がされ、その後それに続く医師たちの苦心によって、人体の仕組みを解明する研究が進められました。
戦国時代には刀傷だけでなく、銃創の治療も行われるようになりましたが、漢方医学における外科は、外傷や皮膚炎、火傷などの処置が中心でした。しかし、華岡青洲による麻酔薬を用いた外科手術は当時の医学界に大きな衝撃を与えました。
日本では、漢方医学に基づき、体内の構造については五臓六腑説が信じられていました。五臓六腑の五臓とは肝・心・脾(ひ)・肺・腎で、六腑とは、大腸・小腸・胆・胃・三焦(さんしょう)・膀胱(ぼうこう)です。しかし、これは現在の西洋医学で言う臓器とは必ずしも働きは一致しておらず、三焦のように実際にはない観念的な臓器も含まれていました。 身体の仕組みについての情報は、錦絵などによって人々の間に普及していきました。体の働きや生命の神秘に関する素朴な疑問に答えるなど、身体の働きについてもその作者によって工夫がこらされました。
私たちは食事で日常生活における活動エネルギーを確保、自己の身体の成長発育と健康の維持を保っています。しかし一方では、医薬の発達や普及が十分でなく、食物が豊かでなかった時代から、食物に関する“禁忌”、“食禁”といわれる摂取規制が重要視されてきました。これは漢方医学、本草学の知識に基づくものと考えられています。