エーザイの歴史70th - History of Eisai -

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エーザイの歩み - 第2章 - 日本衛材株式会社の船出 [1938(昭和13)年~1954(昭和29)年]

戦後間もない本庄工場注射充塡工室

太平洋戦争の直前に、「日本衛材」を設立。そして、「桜ヶ岡研究所」との合併。

桜ヶ岡研究所は1938(昭和13)年、小麦胚芽油から抽出した日本で初のビタミンE剤『ユベラ』を開発したのをはじめ、生理用品『さんぽん』、薬用香粉『らへんで』などを世に出した。この頃、桜ヶ岡研究所の工員は74人に膨れ上がり、三河島の敷地では手狭になっていた。そこで、埼玉県本庄町(現、本庄市)の鶴巻製糸工場を買い取り、1941(昭和16)年12月6日、資本金18万円の日本衛材株式会社を設立(現在のエーザイの母体)。豊次53歳、太平洋戦争が始まる2日前のことであった。

1942(昭和17)年5月、戦争を遂行する名目で、資本金50万円以下の企業は合併か廃業かを強制する企業整備令が公布された。そのため、1944(昭和19)年12月26日、桜ヶ岡研究所と日本衛材は合併して存続することになった。

TOPICS

“計画産児”という新しい考え方を日本社会に提案。

『サンプーン』の発売当時(1948(昭和23)年)は、避妊に対する理解があまりなく、認可も性病予防薬という扱いでした。翌年、1949(昭和24)年には、優生保護法の改正により、避妊薬が合法化され、「計画産児」という新しい考え方を戦後日本のベビーブーム社会に提案しました。

<左の画像は、1951(昭和26)年の『サンプーン』の広告>

エーザイの広告をご紹介「広告の移り変わり」へ

戦後、軍需産業から民需産業へ。ベビーブームを商機に『サンプーン』を発売。

戦局が悪化し、本土空襲が始まる中、日本衛材の経営を支えたのは軍の携帯食(乾燥食糧)だった。医薬品工場というより、軍の食糧工場という色合いを強めていた。1945(昭和20)年8月15日、戦争が終結すると、日本衛材は民需中心の「平和産業」に切り替えることを決断し、民需製品の開発に力を注いだ。

当時、戦後の日本ではベビーブームが起こっていた。そんな折、英国の医学雑誌「Lancet」に掲載された、酢酸フェニール水銀の避妊効果に関する論文を目にした豊次は、女性用避妊薬『サンプーン』を開発し、1948(昭和23)年に発売した。豊次は自ら全国各地を回り、“計画産児”を啓発する講演を行った。

意気盛んな日本衛材の研究所員たち
<1953(昭和28)年ごろ>

エーザイの主力商品となる『チョコラ』開発。社名も「日本衛材」から「エーザイ」へ。

戦後の混乱期を乗り越え、1951(昭和26)年上期は、創業以来初の黒字決算となった。そしてこの年、長らくエーザイを支え続けることになるヒット商品が生み出された。チョコラブランドの第1号『チョコラA』である。夜盲症、皮膚乾燥症、小児の栄養障害などに幅広く用いられた『チョコラA』は順調に売上を伸ばし、その後、『チョコラC』、『チョコラD』を相次いで発売した。

1953(昭和28)年には喘息剤『アストフィリン』、消化性潰瘍治療剤『メサフィリン』などの新製品が発売され、事業は急成長した。さらに、1955(昭和30)年5月、社名を「呼びやすく、かつ書きやすく」との考えから、日本衛材株式会社からエーザイ株式会社へと改名。こうして、戦時中、軍需産業として出発した日本衛材株式会社は、新社名「エーザイ」のもと、新たにやってくる高度経済成長の時代を迎えようとしていた。

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TOPICS

ヒット商品『チョコラ』の名前の由来とは?

ビタミン剤の名前を“チョコラ”としたのは、豊次が、桜ヶ岡研究所時代にコーラ飲料にヒントを得て、チョコレートを主成分とした飲料を売り出すことを考えていた際に用意していた商標を使用したことに由来。子どもにも愛される親しみやすい名称であったため、1951(昭和26)年の『チョコラA』発売以降、“チョコラ”ブランドは今に引き継がれています。

※チョコレートもコーラも直接製品には関係ありません。

現行の商品の情報は:「チョコラドットコム」へ