豊次、尋常高等小学校2年の頃、長姉「のえ」と。
(写真の豊次の着物は、小学校卒業を記念して、のえが織ったもの)
創業者・内藤豊次は1889(明治22)年、福井県の寒村に生まれました。農家の3男坊で6番目の子供でした。7歳のとき母が亡くなり、幼い豊次は朝5時に起きて、朝食を用意し、お弁当をつくって学校へ出かけ、1里半(6km)の山道を往復し、帰るとすぐ夕飯の支度をするという生活でした。尋常小学校4年と高等小学校2年を終えた豊次は、武生(たけふ)中学校に進みます。当時の中学は県の最高学府でした。
豊次はのちに振り返ります。「普通なら高等4年で中学に入学するのがならわしであったが、私は2年の時に合格したので一挙に村の秀才扱いされた。毎日の学課はテンポがのろく、すっかり嫌気がさした」。中学、高校、大学と学歴コースの年数と学費をかけるよりも、当時はやりだした通信教育と実地勉強をしながら独学で身を立てることを決心し、中学は2年で中途退学します。英語は、東京の国民英学会で勉強した義兄に習い、後の豊次のキャリアに大きく影響を与えます。
豊次が衛生兵時代を過ごした陸軍衛戍病院。
1905(明治38)年、15歳の豊次は故郷を離れ大阪に出ます。最初は、貝ボタン工場で新米小僧として使い走りの仕事をしていましたが、英語力を買われ、ドイツ商館・ウィンケル商会に入社しました。豊次は、「外国語は身を助けることを知ったので、英語のほかにドイツ語も中国語も夜学に通って学んだが、神戸には外国人が多かったので、すぐ実用に役立った」と述べています。ウィンケル商会で、輸入や輸出業務を書物でなく実地で学びます。
その後、20歳で徴兵検査を受け、東京の近衛師団に入営しますが、豊次は生来、片目だけを閉じることができません。射撃訓練の際に片目をつぶることができないため衛生兵となり、治療や薬の手ほどきを受けました。2年間の衛生兵としての経験が、豊次を薬の商売に入らせるきっかけとなりました。
角帯、前垂れがけ姿が一般とされていた当時、洋服にネクタイというハイカラ好みだった豊次
除隊後、1911(明治44)年、豊次は第2の故郷である神戸に戻り、英国人が経営する薬局、タムソン商会へ入社しました。その頃、タムソン商会は、欧州製薬企業の日本総代理店を引き受け、薬剤の知識と英語のできる日本人を求めていたのです。薬の世界に入り、豊次は、軍隊仕込み程度の医薬の知識ではものの用をなさないことに気づき、薬に関する専門書の原書を、辞書を片手に片っぱしから読破するなど猛勉強を重ねました。その労あって、豊次の医薬の知識は医師や薬剤師へも十分に対応できるレベルになり、新薬の情報提供のため京阪神から東京までの病医院を地道に訪問しました。売り上げは年々向上、3年後には数人の社員を増やすまでに発展しました。その後、エーザイの伝統となった社員のディテール(商品紹介)コンテストなど、医薬品の情報提供に重きをおく文化は、豊次のこの経験が生かされています。