エーザイの歴史70th - History of Eisai -

  • エーザイ歴史年表
  • エーザイの歩み
  • 創業者・内藤豊次
  • 商品開発の歴史
  • 歴史ギャラリー
  • 第1章
  • 第2章
  • 第3章
  • 第4章
  • 第5章
  • 第6章
  • 第7章

エーザイの歩み - 第1章 - エーザイ創業前史 [1911(明治44)年~1937(昭和12)年]

角帯、前垂れがけ姿が一般とされていた当時、洋服にネクタイというハイカラ好みだった豊次

わずか15歳で社会へ。義兄から学んだ英語が、創業者・内藤豊次の武器に。

1889(明治22)年8月15日、山に囲まれた福井県丹生郡糸生村で、内藤菊次とふじの間に第6子(3男)が生まれた。エーザイ創業者・内藤豊次である。その豊次のキャリアは、薬とは何ら関係がない、大阪の貝ボタン工場から始まった。豊次、15歳のときである。

工場では掃除や使い走りをする、いわゆる雑用係だったが、義兄から学んだ得意の英語を生かして、1年後にはドイツ商館ウィンケル商会へ入社し、輸出業務の一部を任された。1909(明治42)年、兵役のためにウィンケル商会を退社し2年の軍隊生活に入る。ここで、教官から看護卒(衛生兵)を命じられ、これが豊次を薬の業界に入らせるきっかけとなった。

看護卒(衛生兵)時代の豊次

衛生兵の経験を生かして薬業界へ進み、輸入薬販売の下地をつくりあげた。

2年間の兵役を終え、1911(明治44)年、神戸で英国人が経営する薬局タムソン商会に入社。豊次は、海外から輸入した医薬品の製品説明書を翻訳し、それを携えて薬問屋を回り、老舗の販売元に輸入した新薬の取り扱いを取り付けていく。また、病院や開業医にも直接販売するため、神戸だけでなく京都や大阪まで足を伸ばし、着実に輸入薬の販売下地を築いていった。

1914(大正3)年、第一次世界大戦が勃発。輸入薬剤に依存していた日本の薬市場は大混乱となり、豊次も窮地におちいる。その時、大阪の田辺五兵衛商店から、日本橋支店「田辺元三郎商店(現、田辺三菱製薬)」の海外取引を担って欲しいという申し出があり、豊次は、新天地・東京へ向かうことにした。

TOPICS

今でこそ一般的な“高血圧”という用語は、豊次が『アニマザ』のためにつくったものでした。

1924(大正13)年、田辺元三郎商店は、ドイツのシモンエバーズ商会から血圧降下剤『アニマザ』の日本での販売を一手に引き受けました。

豊次は当時をこう回想しています。
「製品の旗印をどうしたものか、血圧昂進の薬としたものか、動脈硬化の薬としたものか、いろいろ考え抜いて決めたのが“高血圧”の3文字である。今でこそ“高血圧”は普通用語であるが、当時このことばを創製するには非常な勇気を要した。“血圧高ければ命短し”というスローガンもつくった。」

新薬開発と広告宣伝の二本柱で、戦後不況と関東大震災を乗り切った。

田辺元三郎商店に着任した豊次は、新薬開発と斬新な広告宣伝で、大戦後の不況や関東大震災の苦境を乗り切っていく。新薬開発では、「ひまし油」を飲みやすくした『カスタロール』、塗る鎮痛剤『サロメチール』の2つの製品を開発し、戦後不況の打撃を受けた田辺元三郎商店を立て直した。

1924(大正13)年、日本で初めての血圧降下剤『アニマザ』を売り出す際に、「高血圧」という言葉を創製し、この三文字を大きく掲載した新聞広告を展開。『アニマザ』の売り上げは増大した。また、1933(昭和8)年には、『サロメチール』の新聞広告が、第1回新聞広告奨励会賞で最優秀賞に輝いている。

桜ヶ岡研究所社員一同<1940(昭和15)年>

日本での新薬開発を志し「桜ヶ岡研究所」を開設。後の主力商品となるビタミン開発に着手。

1930年代に入ると、日本は軍国主義の色合いを強めていく。これを背景に、国民の健康増進・体力向上が急務とされ、ビタミンAやビタミンDが脚光を浴びていた。そこで、豊次はビタミンAやビタミンDを含む肝油剤『ハリバ』を開発。従来の肝油は1日1杯(4g)を飲まなければならなかったが、『ハリバ』は1日1粒がセールスポイントだった。新聞広告では「ハリバ肝太郎」という連載マンガを掲載するという斬新なプロモーションで、当時の田辺元三郎商店の全売上高の3分の2を占める商品に成長させた。

こうして、新薬開発と広告宣伝で活躍をした豊次であったが、日本の製薬業界が外国製品の輸入に頼りすぎていることへの憂いから、「合資会社桜ヶ岡研究所」を設立。豊次は研究員にビタミンE製剤『ユベラ』の開発を命じた。これが、日本におけるビタミンE開発の本格スタートであった。

TOPICS

創業者・内藤豊次が開発に携わった商品をご紹介

日本初のビタミンE剤。ユベラ

『ユベラ』は日本初のビタミンE製剤として桜ヶ岡研究所で開発されました。内柔外硬の球形でチョコレート色のコーティングをし、洒落た包装で当時の注目を集めました。現在もエーザイにて改良を重ねながら販売し続けています。

<桜ヶ岡研究所にて開発し、田辺元三郎商店より1938(昭和13)年に発売>

赤痢大流行時の子どもたちのために。カスタロール (芳香ひまし油)

当時大流行した赤痢の治療で飲用されたひまし油は、臭いがきつく、子どもには飲みにくいものでした。豊次と田辺元三郎商店にとって、第1号の新薬となった『カスタロール』は、ひまし油にレモンの芳香とイチゴの色を加え、シロップで甘く味付けし飲みやすくすることで、ヒット商品となりました。

<1921(大正10)年、田辺元三郎商店にて開発・発売>