エーザイの歴史70th - History of Eisai -

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創業者・内藤豊次 (ないとう とよじ)

日本で初めてビタミンE剤を開発するなど、業界へ新風を吹き込み、エーザイを創業した内藤豊次の生い立ちや人生観についてご紹介します。

1889(明治22)年~1978(昭和53)年

第1部: 少年時代・青年時代

第2部: 上京・結婚・海外視察

豊次と家族。左から、豊次、たま、4番目が祐次(2代目社長)。<1929(昭和4)年>

生涯の伴侶、「たま」と所帯を。

1914年(大正3)、欧州で第1次世界大戦が勃発。豊次が勤めていたタムソン商会も閉鎖の危機に陥りました。豊次は身の振り方を、大阪・道修町の田辺五兵衛商店に相談したところ、東京・日本橋本町の支店(田辺元三郎商店、現在の田辺三菱製薬)で、海外との取引を一手に仕切っていた店主が病で倒れたので助けてほしいとのこと。豊次は、その場で東京行きを決意し、1915年に上京しました。

神戸で豊次は老夫婦の家を借りていましたが、そこへ時々訪ねてくる孫娘(高木たま)に気を引かれていました。父を亡くし母親の手で育てられたという、自分とよく似た彼女の境遇に興味を持ったのです。豊次は、「東京では誰一人話し相手がなく、毎日をドライに単調に明け暮れすることにたまらなくなった。離れてみるとその娘にも思慕の念が募り、いっそのこと結婚しようと呼び寄せることにした」と、のちに振り返っています。3男3女を授かりますが、次男を戦争で、次女と三女を病気で失うという悲しみも二人で乗り越えていきました。

1937(昭和12)年、ビタミンCの日本導入という歴史的使命を胸に秘め、欧米視察旅行へ発つ豊次(左)。東京駅、特急の展望車。

海外視察で、見聞を広げる。

当時、最先端の薬の輸出国であったドイツが参戦し、日本の薬業界は大きな影響を受けました。田辺元三郎商店で貿易業務を手がけていた豊次が海外に目を向けだしたのもこの頃からです。1917(大正6)年には7カ月間の東南アジアの市場調査に、その後、1937(昭和12)年には、ドイツの客船で3カ月余り、欧米薬業界の視察へ出かけます。豊次にとって、中国、インドの先の世界は幼少の頃からのあこがれの地でした。欧米の先進製薬企業を自らの目で確かめたことで、新薬づくりや研究所の規模に開眼させられます。

「製薬業の核になるのは研究室でなくてはならない」という一念に燃える豊次は、他人のつくったものを取り次いだり、外国からものを買うことばかりを追いかける当時の製薬業の現状を看過できず、新薬開発をめざす桜ヶ岡研究所を自らの資金で設立しました。創薬にかけるそのマインドは、現在のエーザイにも引き継がれています。

豊次は、自ら創作した「老多利体操」を各地の老人クラブで実演指導した。

豊次の人生観、仕事観、家庭観、健康観とは?

豊次は、武生中学2年の折、サミュエル・スマイルズの書いた「西国立志編」を読み、「天は自ら助くるものを助く」の言葉に感銘。頼りになるのは自分自身以外にないと信じて、これを生涯の座右の銘としました。また、とくに健康面についての関心は深く、自ら血液の循環をよくする体操を創案し、エーザイ社内報のタイトルにちなんで、「老多利(ロータリー)体操」と名づけました。体操の普及をかねて、各地で実演披露しました。

自著に記した以下のモットーに、豊次の人生観や仕事観、家庭観、健康観を垣間見ることができます。

働けることが、いちばんの幸せ 定年から、人生再出発
長生きしても体が弱くては。早くから健康の習慣づくりを 若いときからそのつもりで、体力づくりに気を配る
夜の宴会には、出ない習慣 昼は鬼、夜は仏
社交上にはマイナスでも、健康上にはプラスになる 家庭は安息の場所、すべてを忘れてのんびりと
よく眠れば、気分爽快 楽しい朝食づくり
毎晩10時には床につき、5時前後までぐっすりと 生野菜とミカンのビタミン食、おいしい半熟卵も
毎朝、歩きながらの体操 健康で文化的な住まい
首や手や腹の屈伸運動で、関節や筋肉の硬直がほぐれる 台所、バス、トイレを衛生的に、居間や寝室には通風と採光を

第1部: 少年時代・青年時代

第2部: 上京・結婚・海外視察