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年表
時代 事項
  約210 「傷寒論」「神農本草経」できる(中国)
414 新羅から金武来日、外国医術初めて公に伝わる。
459 高麗の医師・徳来、来日し難波に住む。子孫代々医を業とし「難波の薬師」と称せられる。
554 百済から採薬師、播量豊、丁有陀来日。採薬師渡来のはじめ。

 
593 聖徳太子、浪華に四天王寺をたて、療病院、施薬院、悲田院、敬田院を併置、難民に医療救恤を行う。
608 薬師恵日、倭漢直福因が遣隋使小野妹子に随行し医術を学ぶ。外国に医術を学んだはじめ。
611 5月5日天皇が百官をひきいて、大和田野に薬猟をした。これから5月5日を、「薬日」として、薬猟の恒例日とした。
623 薬師恵日、倭漢直福因が唐から帰国。これから隋唐の医方が起こった。
645 呉人・知聡の子・孫思が「千金方」30巻、「千金翼方」30巻を著した。(中国)
701  (大宝1) 大宝律令制定、日本最古の医事制度(医疾令)が決められた。

 
753  (天平勝宝5) 唐僧鑑真が来日、医術をよくし薬物鑑別に精通し、これを諸生に教授した。
756  (天平勝宝8) 光明皇太后が聖武天皇の忌日に、天皇御愛用の御物とともに、薬品60種を奈良東大寺に奉納し、正倉院御庫に収蔵された。(正倉院薬物)

 
808  (大同3) 安部真直、出雲広貞ら「大同類聚方」100巻を著した。今の伝本は偽撰という。
810  (弘仁1) 弘仁年中から宮中で元旦に屠蘇酒を用いることが行われた。
927  (延長5) 「延喜式」ができた。その典薬寮の項に「諸国の進年料の雑薬」があり、全国七道54ヵ国から年々進貢した薬品名と数量が記載されている。
982  (天元5) 丹波康頼が「医心方」30巻を著す。現存医書最古のもの。
1107 (嘉承2) 宋の大観年中、陳師文らが「太平恵民和剤局方」10巻を著す。
1498 (明応7) 田代三喜、中国留学から帰り、李朱医学を唱えた。

 
1519 (永正16) 北条氏綱時代(1519〜1540)小田原で「ういろう透頂香」が発売された。現在も発売されている売薬では最古のもの。
1543 (天文18) ポルトガル船、種子島に漂着、はじめて鉄砲を伝う。
1556 (弘治2) ポルトガル人・アルメイダ、豊後府内(大分市)で治療に当る。西洋医術伝来のはじめ。
1590 (天正18) 家康江戸に移る。小田原の薬種商益田友嘉が日本橋本町にきて薬店を開く、江戸薬商のはじめ。
中国の李時珍、「本草綱目」52巻完成。
安土
桃山
1597 (慶長2) オランダ人、はじめて九州平戸に来る。

 
1607 (慶長12) 幕府の儒官・林道春(羅山)が「本草綱目」を長崎で得て、幕府に献上。これからわが国の本草学が急速に発展した。
1634 (寛永11) 長崎に出島を造って外国人の居留地とした。
1635 (寛永12) 幕府、外国船の入港・貿易を長崎に限り、日本人の海外渡航を禁止。(鎖国令)
1638 (寛永15) 幕府、江戸の南・品川に麻布御薬園を、北・牛込に大塚御薬園を開く。
1639 (寛永16) ポルトガル人の入国を禁止し、オランダ人、中国人以外の外国人との交易を禁止。
1649 (慶安2) ドイツ人・カスパルが蘭館医として来日、カスパル流外科のはじめ。
1653 (承応2) 秤座を設け、東国は守隨彦太郎、西国は神善四郎の秤を使わせた。
1681 (天和1) 遠藤元理が「本草弁疑」5巻を著す。異国産薬種記載のはじめ。
1684 (貞享1) 麻布御薬園を小石川御殿内に移し、小石川御薬園と改称した。
1690 (元禄3) ドイツ人・ケンプェル蘭館医として来日。2年間滞在し、わが国の植物を調査研究し、帰国後「日本植物誌」を著す。富山の配置売薬がはじまったのはこの年という。
1693 (元禄6) 水戸の藩医・穂積甫庵が藩主・光圀の命を受け家庭医学書「救民妙薬」を著す。
1710 (宝永7) 新井白石「西洋紀聞」「采覧異言」を著す。洋学書のはじめ。
1715 (正徳5) 江戸本町3丁目の薬種問屋24人が「薬種問屋仲間」を結成、公許された。
1720 (享保5) 徳川吉宗、洋学の禁を弛め実学奨励、これより蘭学興る。
1722 (享保7) 江戸、大阪などに「和薬改会所」を設立し、薬品を検査させた。
小石川御薬園内に「養生所」を設け施療をはじめた。
1725 (享保10) 桂川甫筑に命じて、西洋薬品を製楝させた。
1774 (安永3) 杉田玄白ら「解体新書」5巻を著す。蘭医書翻訳出版のはじめ。これ以後、蘭学を通じて西洋医学入る。
1775 (安永4) スウェーデン人・チェンベルク蘭館医として来日。わが国の植物を調査研究し、帰国後発表した。
1803 (享和3) 小野蘭山の講義を、孫の職孝が編集し「本草綱目啓蒙」48巻著す。
1804 (文化1) 華岡青洲、通仙散を用いて世界初の全身麻酔に成功し、乳ガンの手術を行う。
1813 (文化10) このころ、宇田川榛斎「和蘭局方」を訳定した。
1823 (文政6) ドイツ人・シーボルト蘭館医として来日。翌年鳴滝に塾を設けて医学・博物学を教授した。
1824 (文政7) ドイツの薬剤師ビュルヘルが、シーボルトの助手として来日。西洋薬学者来日のはじめ。
1828 (文政11) 宇田川榛斎「和蘭薬鏡」を著し、医薬品製楝術を明らかにした。
1834 (天保5) 宇田川榛斎、宇田川榕庵「遠西遺方名物考補遺」を著す。その中に元素、水素、窒素、炭素などの化学を初めて記述した。
1837 (天保8) 宇田川榕庵が「舎密開宗」21巻を著す。化学書のはじめ。
1838 (天保9) 緒方洪庵が大阪に「適塾」を開いて、蘭学を教授した。
1857 (安政4) 長崎の海軍伝習所に蘭医ポンペを招聘し、理学及び化学を教授させた。
1861 (文久1) 伊東玄朴が二の丸製薬所において、薬品製造を始めた。

 
1869 (明治2) 大阪の舎密局開講(教頭・ハラタマ)
オランダの薬学者ゲールツ、長崎医学教師として来日、理化学、製薬学を教授した。
1870 (明治3) 売薬取締規制を布告。
1871 (明治4) 兵部省が「軍医寮局方」を制定。薬局方のはじめ。
1872 (明治5) 福原有信、わが国最初の洋式調剤薬局・西洋薬舗会社資生堂を東京にて開く。
1873 (明治6) 第一大学区医学校に製薬学科を設けた。大学における薬学教育のはじめ。
1874 (明治7) 東京司薬場解説(場長・永松東海)。
柴田承桂ドイツ留学より帰国、日本人として最初の製薬学科教授に就任。
医制を公布し、医師および薬舗を取締まった。
1878 (明治11) 東京大学製薬学科教員、卒業生、在学生ら49名、東京薬学会を結成し「東京薬学新誌」を発刊。
1880 (明治13) 薬品取扱規則を公布し、薬品に注意薬、毒薬、劇薬を規定した。
1882 (明治15) 売薬印紙税規則を制定、定価の一割の税をかけた。
1883 (明治16) 大日本製薬会社が設立され、製薬事業をはじめた。
1885 (明治18) 長井長義、麻黄成分の新アルカロイド・エフェドリン発見。
1886 (明治19) 日本薬局方が公布された。施行は明治20年7月から。
1887 (明治20) 福原有信ら東京薬舗会設立。翌年、東京薬剤師会と改称。
1889 (明治22) 「薬品営業並薬品取扱規則」が公布された。
1890 (明治23) 新制度第一回薬剤師試験を東京・大阪で実施。
北里柴三郎、ベーリング(独)とともに、ジフテリア抗毒素を創製。
1893 (明治26) 日本薬剤師会設立。
1894 (明治27) 高峰譲吉、タカヂアスターゼ発見。
1900 (明治33) 高峰譲吉、上中啓三、副腎エキスよりアドレナリン発見。
1908 (明治41) 池田菊苗、昆布のうま味がグルタミン酸ソーダによることを発見。
1909 (明治42) 田原良純、フグ毒テトロドトキシン報告。
1910 (明治43) 秦佐八郎、エールリッヒ(独)とともに、サルバルサンを創製。
鈴木梅太郎、米糠より新栄養素アベリ酸発見、翌年オリザニンと改名。
 
   
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