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波乱の滞日六年〜日本贔屓のドイツ人(2008.02.08)
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館長です

 今年のNHK・大河ドラマは「篤姫」である。今和泉島津家の長女として生まれた篤姫は、やがて島津斉彬の養女となり、さらに右大臣・近衛忠熙の養女として江戸城に上がり、第13代将軍・徳川家定の御台所となる。皇女・和宮とともに江戸を戦火から救ったといわれる「天璋院・篤姫」の物語が1年に亘って展開される。篤姫の養父・島津斉彬は名君の誉れ高く、松平慶永、山内容堂、伊達宗城とともに「幕末の四賢侯」の一人に数えられている。斉彬は曾祖父・重豪の影響で洋学に興味を持ち、18歳の時には曾祖父に伴われ江戸参府の蘭館医・シーボルトを出迎えにいったという。

 ところで、オランダ商館長に随行したこの江戸参府の旅は、シーボルトにとって日本内部を観察する絶好の機会となった。フィリップ・フランツ・フォン・ シーボルトは1796年にドイツ・バイエルン州ヴュルツブルクに生まれた。祖父も父も医科大学の教授を務めた名門の生まれで、本人も医学を修めるかたわら博物学、民俗学を勉強した。やがてオランダに移り蘭領東インドの軍医少佐に任命され、日本勤務を命ぜられて文政六年(1823)に長崎・出島の蘭館医として着任した。オランダ人以外は幕府から上陸を許可されない時代に、シーボルトはドイツ訛りを山オランダ語と偽って入国を果たした。
 シーボルトは6年間の日本滞在中にめざましい活躍をして大きな足跡を残した。文政七年(1824)に鳴滝塾を開設して高野長英や伊東玄朴らに西洋医学を講義し薬草園を設けた。文政九年(1826)の江戸参府の際には大名、蘭学者、医師など多くの訪問者と接触しており、斉彬らに出迎えられたのも、また、後のシーボルト事件につながる土生玄磧や高橋作左衛門景保に出会ったのもこの時である。参府の旅からもどったシーボルトは日本の女性タキを妻にむかえた。彼は新種の紫陽花にヒドランゲア・オタクサの学名をつけるほどタキを愛した。タキはシーボルトの間に娘イネを産んだ。しかし、その翌年の文政十一年(1828)に台風で大破した蘭船から国禁の地図や葵の紋服がみつかり、玄磧と景保は投獄され、シーボルトも国外追放、再渡航禁止の処分を受け帰国してしまった。このくだりはコラム「医は“人”術か(03.12.05)」で紹介した。
 後に許されてシーボルトは安政六年(1859)に再来日するが、事情はすっかり変わっていた。齢すでに64歳、シーボルトはタキや女医になった娘のイネとも再会し日本在住を望むが、本国より召還され失意の内にオランダへ去った。

 幕末の混乱期に歴史の陰で活躍した篤姫の誕生は、シーボルト事件から8年後の天保六年(1836)である。いささか強引だが、交わらない糸を結んでみた。


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