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越中富山の反魂丹(2007.11.16)
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館長です

 昨今、全国何処のお土産も通販等で購入できるし、海外のお土産ですら国内調達が可能である、海外出張の出発前に注文し、帰国時に合わせて自宅に届くよう画策した経験もある。子供のころ、クスリやのおじさんがもってくる「紙風船」を待っていた。「先用後利」という独特の商法で、今なお日本全国で展開されている「配置売薬」の配置員が持参したお土産の一つが紙風船であった。

 配置売薬の歴史は元禄三年(1690)に遡る。加賀100万石の前田家から分封した富山10万石の2代目藩主・前田正甫(まさとし)公が江戸城に登城した折、岩代三春藩の藩主・秋田輝季公が激しい腹痛を訴えて倒れた。正甫公が持参していた「反魂丹」を与えると、たちどころに腹痛は治まった。なみいる諸大名がその偉効に感服し、自分の領内での販売を望んだ。正甫公の命で諸国に行商させたのが富山売薬のはじまりで、やがて配置売薬にかわっていった。文久年間には売上げ20万両、行商2,200人に達し、昭和9年の行商人14,160人がピークであったという。
 「反魂丹」は古くから中国にその処方はあったが、室町時代に泉州堺浦の万代掃部助(もずかもんのすけ)が唐人から教えてもらったのが一子相伝で伝わった。3代目万代主計は備前国益原村(岡山)に移り住んで医者となり、万代常閑(まんだいじょうかん)と名を改めた。富山藩はその常閑から反魂丹の処方を譲り受け、松井屋源右衛門に命じて製造・販売させるとともに、反魂丹役所を設けて奉行をおき管理させた。
 明治9年、反魂丹役所は売薬人たちが共同出資して製薬会社「広貫堂」に生まれ変わった。また、明治26年には配置販売員育成のために「共立富山薬学校」を設立した。現在の富山大学薬学部の前身である。「富山売薬業史史料集」による反魂丹の処方は、白竜脳、麝香、黄、黄連など23味からなると記載されている。広貫堂が現在でも製造販売している「胃腸反魂丹」は、エンメイソウ、オウバク、オウレン、ゲンチアナなどの成分を含む丸剤で、胃痛・腹痛・さしこみ・胸やけなどを効能とする。


 余談だが、昭和11年に富山県売薬同業組合でつくった「売薬歌」がある。
富藩の英主正甫公 名医万代常閑が 伝え来たりし調薬の
道を開かせまししより 星霜茲に三百年・・・
作詞は早稲田大学校歌「都の西北」の作詞者として知られる相馬御風である。余談のまた余談だが、わが母校・豊田市立足助中学校校歌は、作詞・相馬御風、作曲・山田耕作である。


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