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館長です

 昨年(平成16年)11月1日に、新一万円札(福沢諭吉)、五千円札(樋口一葉)、千円札(野口英世)が発行された。旧一万円札の贋札が大量に出回ったことより日銀は新札の増刷を急いでいる。我が女房殿など、旧札を早く使ってしまわなければ・・・と密かに懸念している節がある。しかし、旧の福沢諭吉は勿論、その前の聖徳太子の一万円札も通用することを知らない人の方が少ないであろう。調べてみると、すでに支払いが停止されているが、法律上現在でも有効な銀行券は22種類ある。古いものでは、明治18年発行の一円券(大黒像)、同じく明治22年発行の一円券(武内宿禰)も立派に通用する。むしろそんな古いお札を持っていたら、好事家に高額で引き取られる可能性が高い。因みに、日本銀行券に最も多く登場したのは、戦前2回、戦後5回の聖徳太子である。

 わが国では、元明天皇の和銅元年(708)、唐の開元通宝をモデルにした和同開珎(わどうかいほう、又はかいちん)が鋳造発行されたのが貨幣の始まりであることは、小学校の教科書にも載っている。その後、平安中期の天徳2年(958)までに12種類の銅銭(皇朝十二銭)がつくられた。皇朝銭が発行されると、政府制銭とならんで私鋳銭がつくられ貨幣価値を下げた。贋金づくりは貨幣の歴史と共にはじまったのである。皇朝銭は改鋳毎に旧銭10に対し新銭1という不当な交換率であったことと、徐々に品質が悪化したこと、銅の産出量が減少したことなどにより一般の流通が円滑にゆかず、乾元大宝を最後に鋳造が中止され、以後江戸時代の寛永通宝発行までの670年間、銅銭は鋳造されていない。平安末期には、皇朝銭とならんで中国の唐銭や宋銭が用いられるようになり、皇朝銭廃絶以後、鎌倉時代・室町時代を通じて「渡唐銭」といわれる唐銭・宋銭さらに明銭が一般化した。つまり、外国の通貨を使っていたのである。
 戦国時代になると、諸侯により諸国の金山や銀山が開発されて金銀貨がつくられ、軍用金として重要な役割を果たした。豊臣秀吉は大判・小判を鋳造したが、中でも長さ17cm、重さ165g(44匁)の大金貨・天正大判は世界でも類のない豪華なものであったという(最近、オーストリアで重さ31kgの大金貨が発売)。秀吉は金・銀・銅貨による貨幣制の統一を意図したが、それは、徳川家康に引き継がれることになり、江戸時代になって貨幣経済は一段と発達した。

 当時のお金は三貨・四進法で、身分と地域によって使い分けられたので、極めてややこしい。三貨とは金貨・銀貨・銭貨のことである。家康による慶長小判のあと、代々将軍が新貨幣を発行し、この三貨によって日本に貨幣経済時代がもたらされた。日頃、お金とは縁が薄い筆者であるが、ゼニの話も面白い。

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