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飢饉への備え〜救荒本草〜 (2012.12.07 伊藤恭子)

 江戸時代は戦乱のない平和な時代だったと言われていますが、当時の人々は自然災害や凶作により、たびたび飢饉に見舞われました。飢饉の際の代用食のことを救荒食物といいます。普段は食用としないものでも、どのようなものが食料になるかは、経験や言い伝えによって伝えられてきました。中国では救荒食物については書物にすでにまとめられ、日本でも飢饉の経験を踏まえ、植物の比較や同定をして和名をつけた、日本独自の救荒本草書も出されるようになりました。例えば、『救荒本草啓蒙』、『救荒野譜啓蒙』などがあり、山野に自生する食用本草など身近な草木をわかりやすく紹介しています。
 一関藩(現在の岩手県)の藩医・建部清庵(たけべせいあん)(1716−1782)は、多くの人々が飢えに苦しむ姿を目の当たりにし何とかしようと、飢饉対策に『民間備荒録』、続編『備荒草木図』をまとめました。備荒の“荒”は飢饉の意味であり、飢饉への備えと、草木の調理法や中毒した場合の解毒法などを記したものです。飢饉の時には疫病が併発し、多くの人々の命が失われました。それを救うために、しばしば疫病に効く処方を記したお触書も出されたのです。村の組頭や名主に配布され、広く利用に供されたといわれています。
 西日本で享保17年(1732)、「享保の大飢饉」が起こりました。八代将軍・徳川吉宗は平時より、飢饉に備えるために代用食物として甘藷(かんしょ:サツマイモ)の栽培を奨励していたといわれます。甘藷が栽培されていた薩摩(鹿児島県)、長崎、対馬では餓死者が出なかったことが知られたからです。青木昆陽(1698−1769)も『蕃藷考(ばんしょこう)』の中で甘藷の有用性を説き、研究しました。やせた土地でも育ちやすい甘藷は関東で広がり、やがて全国で栽培されるようになったのです。寛政の頃には江戸で焼き芋が売られ、「クリよりうまい十三里(九里四里(くりより)うまい十三里)」と、日本橋から川越まで13里(9+4)あることからもじり、埼玉の川越甘藷の味のよさがうたわれたりしました。
 天明2年(1782)から数年続いた「天明の大飢饉」の時には甘藷をはじめその他の救荒食物や飢饉対策のかいがあったのでしょうか。甘藷によって救われた命も少なくなかったといわれます。


『周憲王 救荒本草』徐光啓編
享保元年(1716)刊行のもの

『民間備荒録』建部清庵著 宝暦6年(1756)
飢饉の時に必要な知識をまとめたもの。

『備荒草木図』建部清庵著 天保4年(1833)
飢饉の際に食用になる植物を文章中心で説明していた民間備荒録を、一般向けに文字を少なく図版中心に編集したもの。絵が豊富でわかりやすい。
『救荒本草啓蒙』小野寳、(職孝)口授 天保13年(1842)
本草学者の小野蘭山が幕府の医学館で本草学の講義をした内容をまとめたもの。
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