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晩年の華岡青洲(部分)  医聖・華岡青洲は宝暦10年(1760年)、和歌山県那賀町平山に生まれた。名は震、通称雲平、青洲と号した。青洲が世界で初めて全身麻酔(記録に残っている限りでは)下での乳がんの手術に成功したのは、文化2年(1805年)10月13日のことであり、アメリカのモートンがエーテル麻酔の公開実験を行った1846年に、実に40年も先駆けている。患者は大和五条の藍屋利兵衛の母勘(かん)60歳であった。青洲が麻酔薬「通仙散」を完成させるまでには、3年間の都での勉強を終えて帰郷し、麻酔薬の開発を志してから20年の苦難の道がある。
 通仙散は曼陀羅華(まんだらげ)を主薬とした6種類の生薬でつくられる。曼陀羅華はナス科のチョウセンアサガオのことであり、作用は主成分ヒヨスチアミン(アトロピン)によるもので、副交感神経を強く抑制し、中枢神経を興奮させたあと抑制をもたらす。青洲は通仙散による麻酔下で、乳がんだけでも153症例の手術を実施した。

 青洲が通仙散を完成する過程で、母於継(おつぐ)と妻加恵(かえ)の献身の争いがあったことは、有吉佐和子著『華岡青洲の妻』で一躍有名になった。青洲は犬猫による前臨床試験で好結果を得たが、やはり、ヒトによる臨床試験が必須であった。母と妻が率先して試験に参加したが、恐らく曼陀羅華の臨床用量を決めるための試験であったと思われる。正真正銘のボランティアである。妻加恵の失明は、アトロピンの有害作用によるものと容易に推測される。

 それに先立つ青洲が22歳の時、新しい医学の勉強のため京の都に行くことを望むが、父直道には8人の子供がおり、青洲を遊学させる余裕は全くなかった。それを聞いた妹の於勝(おかつ)と小陸(こりく)は、自分たちが機織りをしてお金を作るからと父を説得したと言われている。於勝は結婚することなく青洲のために機を織りつづけ、31歳で乳がんを患いこの世を去っている。通仙散完成以前のことである。青洲の悔しい胸のうちは察するに余りある。妻や妹たちは機織りばかりでなく、薬草の栽培などでも青洲を全面的に支援した。

 青洲の功績は、昭和29年(1954年)に世界外科医学会で取り上げられ、米国シカゴにある、人類の福祉と世界外科医学会に貢献した偉人をまつる栄誉館にまつられている。

 下世話に「犯罪の陰に女あり」というが、成功の陰にも力強い女性たちの支えがあったという事例である。今や、女性も「日向の力」の時代である。

華岡青洲
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