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平賀源内は江戸時代の蘭学の勃興、隆盛期に活躍する人物で、特にエレキテルでその名は知られるが、蘭学者、戯作者、画家、俳人、発明家そして本草学にも足跡を残す本草学者でもあった。
本草学者は勉学の一方法として、たびたび「物産会」や「薬品会」を催した。全国各地の薬種や産物を展示し交換する物産会は、学術的な発表の場であるとともに、珍しい物品を見ることができる一般大衆向けの博覧会でもあった。第一回の薬品会には蘭学者らも出品し、その後も平賀源内が同好者にチラシを配布して出品を促し盛況を博した。薬品会は物産会ともいわれ、全国各地に広がり開催されるようになった。場所は江戸、大坂、京都、尾張(名古屋)の大都市が多い。他には熊本、長崎、和歌山、福井、富山などで開催した記録もあり、薬品会は明治維新直前まで続いた。また第五回の薬品会で、源内は日本で最初の博物図鑑『物類(ぶつるい)品隲(ひんしつ)』を出版している。
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物類品隲(ぶつるいひんしつ) 巻之1-5 平賀源内編 宝暦13年(1763)物品解説書。「品隲」は品評の意味。厳選した360品を紹介。 |
源内が薬品会で親しくなった蘭学者・杉田玄白は『蘭学事始』で源内を「天性の才人」とたたえている。源内の弟子の小田野直武は『解体新書』の扉絵や挿絵に関わった。急逝する2年ほど前に「功ならず名ばかり遂げて 年暮れぬ」という有名な句を残している。やりたいことはできずに、虚名だけで有名になってしまって気付けば人生の黄昏になっていたという意味である。浄瑠璃や戯作も書いて人気を得ていたが本人にとっては虚名に過ぎなかった。玄白は源内の突然の死に「ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」という言葉を墓碑に刻んでいる。 |
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