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現在では、手足の冷えを温めることは難しいことではない。家庭においてはさまざまな暖房器具があり、外出時においても、使いきりカイロや皮膚に直に貼るタイプの温熱器具を使うことが可能である。では、昔はどのようにして、冷えに対処していたのだろうか。ここでは、個人の体を温める器具について紹介する。
冬期あるいは病気の際には、古くは軽石などを温めて布に包み、体を温めた。これを温石(おんじゃく)と呼んだ。平安初期の律令の施行細則である『延喜式』にも諸国貢薬のリストに紀伊国の温石の記載がある。
石は加熱すると割れることもあるので、代わりに瓦を使うこともあった。このほか、川砂を焙烙(ほうろく)で炒った焼砂もしくは、同様に作った焼塩を、内側が厚い紙、外側が二重になった布製の袋に入れて用いることもあった。
湯たんぽは中国から伝わったものである。1713年(正徳3)刊行の寺島良安の『和漢三才図会』にも、銅製の「湯婆(たんぽ)」として掲載されている。中国語では「湯婆子(タンポツ)」といい、「婆」は妻のことを指すので、布団に入れて足腰を温める“お湯の妻”の意味といわれている。夏に涼しく寝るために、竹で編んだ籠を竹夫人と呼び、夏冬の違いはあるが、湯婆とともに重宝な器具と考えられていた。日本では「湯」を“タン”と読むことがわかりづらく、「たんぽ」に「湯」を重ねて「湯たんぽ」と呼んだといわれる。江戸時代には元禄年間に流行し、脚婆・錫奴とも呼ばれた。陶製の湯たんぽが登場したのは幕末とされ、その後ブリキ製が作られた。
懐炉は懐に入れる保温器で、元禄時代頃に発明されたといわれている。イヌタデやナスのへたなどを黒焼きにしたものを懐炉灰と呼び、これを金属性の小箱に入れ、燃料として火をつけて使用した。後に、銅またはブリキ製の小箱となり、周囲に空気抜きの小孔をつけ、上を布で包んで貼ったものだった。昭和初期には懐炉灰に桐の粉炭を紙で巻いたもの、麻殻を焼いた木灰、木炭を固めて棒状にしたものを入れて使用していた。白金懐炉は、1923年(大正12)に矢満登商会(現:ハクキンカイロ株式会社)が製造・販売した。これは灰を燃やすものではなく、白金(プラチナ)を触媒としてベンジンを低温で長時間燃焼させる仕組みとなっており、現在も使用されている。 |
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 湯たんぽ 陶製 23x18x10 Z01686 |
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 湯たんぽ 磁製 25x22x11 Z00541、Z00542 |
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 (左)懐炉 Mikasa 金属製 8.5x8.5 Z15325 (右)ミカサ懐炉炭 鳥居商店 缶-有-開封 8.5x6.5 Z15381 |
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 ハクキン懐炉 矢満登商会 大阪 金属製 13x7.5 Z15327 |
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<主な参考文献> |
ものしり事典 医薬編 |
日置昌一著 昭和29年 河出書房 |
事物起源事典 |
朝倉治彦ほか編著 昭和59年 東京堂出版 |
和漢三才図会 |
寺島良安編 杏林堂 |
日本民具辞典 |
日本民具学会編 平成9年 ぎょうせい |
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