アートを見て、感じたことを自由に語り合う。一般社団法人アーツアライブ代表の林容子さんがはじめた「アートリップ」は、認知症当事者様やご家族、そしてケアマネージャーたちも巻き込んで共にアートを楽しむ対話型の鑑賞プログラムです。アートに詳しくなくても、自らの感性を言葉にしていくことを通じて、認知症の危険因子(リスクファクター)であるうつや高齢者の生活の質(Quality of Life)が改善されることが臨床試験において実証されている※1,2といいます。
そんな認知症への新しい答え「アートリップ」をどのようにはじめたのか、主催の林容子さんに伺います。
「みなさん、この絵の中に何が見えますか?」
長野県小布施町にある「おぶせミュージアム・中島千波館」。小布施生まれで現代日本画家を代表する一人、中島千波氏の絵画の前に立つ林さんは、笑顔で参加者の方々に問いかけます。「エビがみえるね」「ヤギもいる」。思い思いに自分が感じたことを言葉にする参加者は、認知症当事者様とご家族とケアマネージャーの方々。初めは緊張されていた参加者も、感じたまま自由に話せる雰囲気に、どんどん言葉数が多くなっていきます。絵に書かれているものから、自身の思い出を連想する方や、絵のテーマに関する歌を歌う方も。「アートは人の数だけ見方を許してくれる、とても自由なもの。誰でも自分らしさを発揮できるんです」と林さんはいいます。
実は美術大学で先生もされている林さん。認知症とアートの親和性に初めて気づいたのは、イギリスで開催された「医療福祉と芸術」に関する国際会議に参加したときでした。視察した病院のいたるところにアートが飾られ、アーティストが入院者や地域住民と共に創作活動に励む光景を目の当たりにします。特に、障がいを持つアーティストがアートを通じて社会に貢献し、生きがいを見出している姿は、林さんがこれまで感じていた「障がいを持つ人はただ面倒をみられているだけ」という認識を根底から覆すものでした。
アートを活用した社会貢献について興味をもった林さんは帰国後、美大生と共に高齢者施設でのアート創作活動に着手します。利用者の楽しかった思い出を障子に描くなど、装飾に乏しかった施設内を認知症当事者様と一緒にアートがある環境に変えていくプロジェクトで確かな手応えを感じたそう。
そんな中、大学時代の恩師の紹介でニューヨーク近代美術館(MoMA)の認知症当事者様向けプログラム「Meet Me at MoMA」に出会います。アートの前で楽しそうに話す当事者様の姿に感動し、林さんは「この素晴らしい取り組みを、ぜひ日本で広めたい」と強く願うようになります。
2012年、林さんはニューヨーク近代美術館のプログラムを参考に、アートリップを立ち上げました。最初は当事者様2人を相手にMoMAと同じ絵を印刷してやってみると、非常に喜ばれました。「これが生きる張り合いになる」と大好評だったそうです。
しかし、当時の日本は認知症当事者様が美術館を訪れることへの偏見が強く、「事故があったらどうするのか」「下手に刺激を与えると興奮状態になるのではないか」といった理由で協力を断られることがほとんどでした。日本でアートリップをもっと広めるためには、認知症に対する効果の科学的検証が必須だと感じた林さんは、同時期にアメリカのケース・ウェスタン・リザーブ大学に研究員として在籍し、認知症を学術的にリサーチしながら日本でアートリップの実践を重ねていきます。2013年には国立長寿医療研究センターと共同で、初めてアートリップの臨床試験を実施※1。この臨床試験で認知症の危険因子であるうつの改善などの結果が得られた林さんは、自信を持って美術館と交渉できるようになったといいます。
そうしてブリヂストン美術館や国立西洋美術館でアートリップの実施回数を重ねていくうちに、林さんは認知症当事者様の「非常にクリエイティブな一面」に驚いたそうです。例えば、モネの雪景色の絵を見て「寒い、寒い」と言ったり、ギュスターヴ・カイユボットの「床削り」を見て、床を削る労働者に「お水を飲ませてあげなきゃ」と話したり。普段はあまり話さない当事者様が、絵を前にすると生き生きと話し始める姿を何度も目の当たりにしました。様々なことが”できない”とされていた認知症当事者様の可能性を、アートが引き出しているのかもしれない。
林さんの予感通り、アートリップ参加者には様々なポジティブな変化が生まれました。離婚寸前だった夫婦の関係が修復されたり、認知症でやめてしまった絵をアートリップ後に再び描きはじめたり、夜中に何度も起きていたのに熟睡できるようになった方もいました。
2012年から2020年の8年間、毎月国立西洋美術館で開催するなかで、林さんはニューヨークで生まれたプログラムに、日本独自のノウハウを加えていきました。一番のポイントは「心からリラックスして参加してもらう場づくり」だそうです。現在、そのスキルを持つ人材を日本全国で増やすことが、林さんの目標になっています。
「日本全国でアートリップが実施できるようにしたい。最低でも100館の美術館や博物館で月に1回、定期的に開催する。そのために、全国に400名の認定アートコンダクターを養成することが目標です」そう語る林さんは、参加者との会話を通じて言葉を引き出すアートリップの案内人を「アートコンダクター」と呼びます。そのスキルを養成する講座では、林さんの知識と経験を共有するだけではなく、実際に認知症当事者様との交流を通じた実践も学びます。参加者には看護師やケアマネージャーなど、認知症当事者様と接する方が増えているのだそうです。
この背景にはアートリップが知られるようになった他、世界各国でアートを認知症治療に活かす「社会的処方」に注目が集まっていることも関係しているといいます。「社会的処方」は、当事者様が抱える課題を解決するために地域の活動やサービスへの参加など、社会参加の機会を医師が処方するものです。美術館や図書館、レストランやカフェ、公園など、様々な場所を活用して、当事者様のウェルビーイングを向上させ、結果的に病気そのものの治療にも繋げていく。博物館や美術館のあり方は、この「社会的処方」の浸透によって大きく変化していくと考えられています。
2023年、国際的に「博物館」の定義を定める国際博物館会議(ICOM)で大きな定義変更が採択されました。これまで博物館は貴重なものを保存し、修復し、研究し、展示する「物のための場所」でしたが、これからは「人のため」の場所として定義されました。「人」には障がいのある方、外国人、経済的に困難な方など、これまで美術館を訪れにくかった人々も含まれます。日本においても、2023年の博物館法の部分改正で「博物館のあるべき姿の提示」が行われ、「地域社会との連携」が義務付けられました。社会制度が、アートリップの理念に追いついたのです。
「私ひとりが頑張っても、アートリップは広がりません。全国のアートコンダクターや美術館、博物館の方々はもちろん、介護施設や医療施設の方々にもこの取り組みを知っていただき、協業して行きたいと考えています」
アートリップのような新しい答えをはじめるのに必要なこと。それは、”先入観を無くす”ことだという林さん。「認知症になってしまったらアートなんて分からない」そんな先入観があったのかもしれません。しかし今、多くの認知症当事者様がアートリップで笑顔を見せ、自信を取り戻し、家族や友人たちと心を通わせています。
「認知症に対する先入観をなくし、とにかくやり続けます。私は、アートの力を信じていますから」
林さんはとびきりの笑顔で、新しい答えのはじめ方を教えてくれました。
アートを通じたコミュニケーションで感性を動かし、言葉を引き出す。その過程でその人らしさが現れてくる様子がとても印象的だったアートリップ。「自分らしく生ききることを支える」という理念は、私たちエーザイと同じでした。認知症を克服するためには、新しい治療薬の開発と同時に、アートリップのような多様なアプローチが求められています。「認知症だからできない」という先入観を捨てれば、新しい答えにつながる種は、既に周りにあるのかもしれません。
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