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バック to the 天平(てんぴょう)(2006.11.02)
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館長です

 8月25日の朝刊では、各紙一斉に「唐招提寺金堂で、奈良時代末期の建造当時に描かれた極彩色の花弁文様が見つかった」ことを報じた。「正面扉の補助金具の下にあったため、風雨による劣化を免れ、1200年前の彩色を奇跡的に保ってきた。二枚の花びらが三枚の葉を両側から包み込むように描かれており、花びらは赤色系、葉は緑色系を並べ・・・云々(日本経済新聞)」と記事は続く。唐招提寺は天平宝字三年(759)、唐僧・鑑真大和上が創建した律宗の総本山であり、1998年に「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録された。金堂は天平の時代を代表する建造物であるが、1995年の阪神淡路大震災によりダメージを受け、2000年から10年の計画で平成解体大修理中である。

 ところで、唐僧・鑑真の来朝には壮絶なドラマがあったことは広く知られている。天平五年(733)に聖武天皇は日本の授戒の師となるべき高僧を求めるため、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の二人の青年僧を唐に送った。二人が鑑真に会ったのはその9年後のことである。鑑真は弟子に渡日を求めたが、志願する者は誰もなく自ら渡日を決意する。翌・天平十五年に渡海にトライするも弟子の密告で失敗する。鑑真が日本に上陸するのは、実にその10年後の天平勝宝五年(753)のことである。その間に鑑真は5回の渡海に失敗し、6度目に漸く成功したのである。時に鑑真は67歳になっていた。再三に亘る渡海失敗の原因は、鑑真の徳を惜しむ慰留工作、時の皇帝による出国禁止、暴風雨、盗賊などであったという。5度目の渡海トライ時に、鑑真は極度の疲労あるいは潮風の影響か眼病を患い失明した。また、過酷な旅と酷暑で栄叡が他界した。
 鑑真は名僧であると同時に、名医・バック to the 天平(てんぴょう)(2006.11.02)との親交を通じ医薬の道にもくわしかった。盲目でありながら、鼻でかぎ分けて薬物の鑑定を行い、いささかの誤りもなかったという。彼の医学は『鑑真秘方』によって伝えられたが、すでに散逸しており、永観二年(984)に丹波康頼が著したわが国最古の医書『医心方』への引用でわずかに知ることができる。鑑真は光明皇太后の病気をなおした功により「大和上」を賜った。

 弟子の忍基は日本初の肖像彫刻となる鑑真の彫像を彫り上げた。国宝・鑑真和上坐像である。中国で鑑真が住職を務めていた江蘇省楊州の大明寺は文化大革命により1966年に破壊されたが、1980年に唐招提寺から国宝・鑑真和上坐像が里帰りし、多くの人が拝観に訪れて大明寺再建に大きく寄与したという。極彩色の花弁文様の発見により、天平の世に繰り広げられたドラマが蘇える。
若葉して 御目の雫 拭はばや(芭蕉)



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