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トリビアの泉(2004.09.10)
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館長です

 フジテレビ系に水曜日夜9時から「トリビアの泉」というバラエティー番組があり、なかなかの視聴率と聞いている。triviaとは、辞書では「つまらないこと」と記載されているが、番組では「世の中で知っていてもしょうがないムダな知識」と紹介している。5人のパネラーが各20点を持ち点とし、「へぇー」と驚きの度合いで採点する仕組みである。番組では、エライ学者さんや専門家が解説したり、VTRを見せたりして事実を立証している。筆者にはその術はなく書物の受け売りに過ぎないが、ささやかなトリビアに挑戦してみようと思う。

トリビア1――鉄砲伝来より30年も前に日本に上陸した西洋文物があった。
 日本人が最初に西洋文明に接したのは、天文十二年(1543)ポルトガル人の種子島漂着による鉄砲伝来であり、さらに、6年後のフランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝来である。この事実は小学生でも知っている。ところが、それより以前に西洋文物の一つともいえるものが上陸していたのである。「梅毒」である。性病の王者・梅毒はコロンブスの新大陸発見(1493)の航海土産と言われており、たちまちヨーロッパ全土に伝播した。時あたかも大航海時代−さらに、インド、マレー半島、中国へと東方にも波及してきた。わが国に梅毒スピロヘータ−を運んだ犯人は、ポルトガル人でも中国人でもなく、当時、朝鮮半島や中国沿岸を我が物顔で荒らしていた海賊・倭寇、すなわち日本人だった。わが国における梅毒の最古の記録は竹田秀慶の『月海録』で、永正九年(1512)に新しい性病・梅毒が流行したとある。(歴史読本、昭和60年)

トリビア2――神農と黄帝は敵同士だった
 古代中国の医学書といえば、最古の薬物書『神農本草経』、最古の医書・鍼灸の原典『黄帝内経(こうていだいけい)』および『傷寒論』であり、炎帝神農(農耕と医薬の祖といわれる)と黄帝は伏義を加えて伝説上の三皇と呼ばれている。伝説上の人物とはいえ、神農、黄帝とも中国医学の世界ではチョー有名人である。その神農の子孫と黄帝が戦い、黄帝が勝ったという話がある。司馬遷の『史記』の中の「五帝本紀」に次の記載がある。黄帝(名は軒轅)が生まれ育った頃は神農の治世が続いていたが、権威が失われつつあった。諸侯が争いあって人民を苦しめていたが、神農氏はこれを制圧することができなかった。そこで、軒轅は服従しない諸侯を征伐した。次第に他の諸侯は軒轅を慕うようになった。おりから、炎帝の子孫が諸侯を侵略するという事態が発生し、諸侯は一斉に軒轅に帰属した。軒轅は軍勢の整備などの後、炎帝の子孫と阪泉の地で決戦を交え、三度にわたる決闘のすえ勝利した。(杏林史話・伝説、松田義信)

 この程度では「30へぇ」の獲得も難しいだろう。殺伐として慌しい現代においては、「ムダ」とは偉大なる「癒し」かもしれない。

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