内藤記念くすり博物館の展示物の一つに、「正倉院種々薬帳(薬種廿一櫃献物帳)」の複製があり、天平勝宝8年(756年)に光明皇太后が聖武天皇の崩御後、御遺物として、東大寺正倉院に奉納された薬物60品目が記帳されている。その内、39種類が1200年の時を経た今日も現存していることは驚くべきことである。これ等の薬物は、当時、唐から輸入された高級品ばかりと言われている。
聖武天皇は、東大寺に大仏を建立された方である。新興国日本が国威を近隣に示す大事業であったが、何故、この時期に国力を尽くしてまで大仏を建立しなければならなかったか謎の部分は多い。聖武天皇と光明(こうみょう)皇后の関係を、かの玄宗皇帝と楊貴妃の関係に模する人がいる。白楽天の「長恨歌」は玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスを謳いあげたものだが、傾国の美女と称された楊貴妃は、同時に相当のグラマーで、玄宗皇帝はぞっこん参っていたという話である。白楽天も「温泉水滑洗凝脂・・・温泉水滑らかにして凝脂(美女の白く滑らかな肌の形容)を洗う」と謳った。楊貴妃の最期は美人薄命に相応しい。
大仏建立や遷都に駆り立てられた聖武天皇は、ノイローゼであったという説がある。その原因は、虚弱体質であった聖武天皇の光明皇后に対する肉体的コンプレックスであり、更に、「養老律令」を完成させるなどして絶大な政治力を発揮した光明皇后の父、藤原不比等(ふひと)に対する政治コンプレックスであったと言われている。
光明皇后は不比等の三女として生まれ、名を安宿緩(あすかひめ)、光明子(こうみょうし)とも伝えられる。皇族以外で皇后になった初めての女性である。光明皇后がグラマーであったかどうか定かでないが、頭がよく、施薬院や悲田院を造って疾病の治療や孤児の救済をするなど慈悲深い性質であったことは事実のようで、繊細でひ弱な聖武天皇にとって、全く頭が上がらない存在であったことが容易に想像される。
奉納された60種類の薬物の中には、当時、不老不死薬と言われた鉱物薬が多いのも、聖武天皇が光明皇后に何とか対抗しようとした表れかもしれない。
世のぐうたら亭主にとっては、かみさんが絶世の美人であったり、出来がよすぎたりするのは考えもので、ほどほどが上々と思われる。