くすりの博物館
サイト内検索
もうひとつの学芸員室
人と薬のあゆみ 薬草に親しむ 内藤記念くすり博物館のご案内 もうひとつの学芸員室くすりの博物館トップページへ


遊ぼう!動かそう!中野コレクション
見てみて!くすり広告
パネルクイズ「資料でふりかえる鍼と灸」
やってみようツボ体操
薬と秤量によって毒にも薬にも
くすりの夜明け−近代の医薬ってどんなものだったんだろう?−
江戸に学ぶ からだと養生
綺麗の妙薬〜健やかな美と薬を求めて〜
病まざるものなし〜日本人を苦しめた感染症・病気 そして医家〜
江戸のくすりハンター 小野蘭山 −採薬を重視した本草学者がめざしたもの−
学芸員のちょっとコラム
館長のトリビア
学芸員のちょっとコラム
はやり風邪 (2010.01.15 伊藤恭子)

 インフルエンザの予防接種は受けられましたか。有効な薬が開発されているとはいえ、特に高齢者や小さな子どもには油断ができず、ワクチンの接種や日常生活でできる予防は欠かせません。
 インフルエンザは流行性感冒ともいわれ、世界的に流行することが多く、16世紀から現在まで、少なくとも31回の世界的流行があったといわれています。最大の流行は1918年のもので、スペイン風邪とよばれ、世界中で2000万人以上もの死者が出ました。
 日本では江戸時代の諸書に、風邪、風疫、風疾、あるいは疫邪といった記述が見られます。また医書に時気感冒・天行感冒などと記録されたものには、その症候から推してインフルエンザの流行と思われるものがあるようです。江戸時代後期、18世紀後半から19世紀にかけての日本は、気温が異常に落ち込み、特に天明から天保にかけて飢餓時代で、異常気象の谷間にありました。体力の衰弱した人々をおそい、気象条件によっては病気を悪化させ、流行を拡大・激化させる一つの誘因となったと考えられます。
 流行ごとに世事にちなんで「お駒風」、「お七風」といった呼び名をつけ、その病因や症状、流行の速度や死者の数を細かく観察し、語り継いできました。また川柳にも「はやり風邪十七屋からひきはじめ」と十七屋で流行し、あちらこちらへ風邪が運ばれる様子がうたわれています。「十七屋」とは江戸の日本橋、瀬戸物町にあった飛脚問屋のことです。上方から東海道筋へと伝染してきた風邪は、江戸では当時のターミナル、飛脚問屋からはやりはじめました。

明治23年(1890)から翌年にかけて、世界的なインフルエンザの大流行が日本に及んだ。医者、薬屋が大繁盛する一方、銭湯や散髪屋に閑古鳥が鳴く世相を描き、迷信を批判し、医学的な情報を紹介している。「赤小豆の皮を焼いて服用するのが予防と心得る人がいる」と書かれている。赤小豆は水で服用すると解熱効果があることから用いられたのだろうか。
<40x76>

 江戸時代、最初の流行は慶長19年(1614)で、「幾内近畿、風疾流行」とあります。この冬から翌年、元和元年(1615)にかけては寒冷で、津軽では8月に霜をみたというほどでした。安永5年(1776)の流行は城木屋お駒という妖婦をモデルにした浄瑠璃が当時はやっていたので、「お駒風」と名づけられました。
 病気の発生・伝播の経路を見ると、ほとんどの流行がまず長崎に発生し、つづいて中国から上方を経て関東に到り、さらに奥羽へと東進しています。長崎が当時唯一の外国に開かれた門戸であったからで、外国から入ってきた感染症であったことを表わしています。
 幕府の医官の伊東玄朴が翻訳した『医療正始』には、インフルエンザに「印弗魯英撤」という5字の漢字をあてています。これがわが国でインフルエンザの病名が活字になった初めです。
 ところで、インフルエンザはなぜこのように名づけられたのでしょうか。ラテン語にInfluereインフルーレ(流れ込む)という語があります。大昔の人は夜空の星から神秘なものが人の身体に“流れ込んで”その人を支配すると考えていたので、流れ込むという動詞(英語でinfluence)が“影響する”とか“感応する”という意味になったようです。したがって、その病気を持っている人に感応した結果起こるとされたのが、はやり風邪でイタリア語のInfluenza(英語もInfluenza)という名がつけられたようです。
戻る
ご意見ご感想著作権について Copyright(C), Eisai Co., Ltd. All rights reserved.