エーザイの歴史70th - History of Eisai -

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エーザイの歩み - 第4章 - 高度成長の時代 [1966(昭和41)年~1975(昭和50)年]

左から社長・内藤祐次、会長・内藤豊次、専務・内藤達雄

新社長・内藤祐次体制のもと、海外進出を、いよいよ本格化。

エーザイがかつてない急成長を遂げる中、1966(昭和41)年5月14日、その舵取りは新社長の内藤祐次に託された。

この時期、日本は高度経済成長と国際化の時代にあり、エーザイも国内では、仙台、立川、横浜、静岡、金沢、京都、神戸、和歌山、岡山、広島、高松、熊本の12ヵ所の拠点をベースに、全国的な販売網が確立された。さらに、「年商1億ドル(360億円)」を目標から3年前倒しの1971(昭和46)年度に達成するなど、成長路線を引き続き堅持しつつ、海外進出がいよいよ強力に推し進められていくことになる。海外への本格進出にあたって、社名マークからは、カタカナの「エーザイ」が除かれ、アルファベットの「Eisai」のみに統一された。

「エーザイのロゴマークの由来」へ

ジャカルタから90km、海抜1400mの風光明媚な地に操業を開始した「インドネシア・プンチャック工場」。

東南アジア最大市場インドネシアで、エーザイ初となる海外生産がスタート。

エーザイの海外展開は、アジアから始まった。豊次社長時代に、アジア各国に代理店を通して輸出事業を展開し、沖縄(那覇市、当時は米国統治下)、台湾(台北)、香港、タイ(バンコク)には駐在所を開設するに至った。祐次社長時代には、より積極的な資本投資が行われ、1969(昭和44)年度、台湾、タイ、インドネシアに現地法人が設立された。

その中でも、東南アジアにおける当時の最大のマーケットであったインドネシアでは、本社のあるジャカルタから90km、海抜1400mの風光明媚なプンチャック地区にエーザイ自社工場を建設し、初の海外生産への道を開くこととなった。

こうした海外進出を推し進めた活動が認められ、エーザイは、通商産業大臣から1969(昭和44)年度の「輸出貢献企業」の表彰を受けている。

TOPICS

日本の将来のために、「内藤記念科学振興財団」を設立。

日本の医薬品業界が独創的な新薬をつくりだすことなく、欧米のアイデアの導入や模倣に甘んじている状況を憂いていた内藤豊次は、1969(昭和44)年、私財を拠出して「内藤記念科学振興財団」を設立しました。当時の日本では、応用面の研究に比べ、基礎的研究にまで資金が行き届かなかったため、十分な研究がままならない状況にありました。そこで、基礎的研究の分野で研究を続ける科学者たちに支援を行いました。当財団の設立趣旨は、エーザイの掲げる創業精神と同じく、日本の将来を見据えてのものでした。

<左の画像は、財団の役員会で設立経過を報告する内藤豊次。>

日本の薬業界へ新風を。「創業者・内藤豊次」へ

研究開発型メーカーならではの独創性が、画期的治療薬『ノイキノン』を生んだ。

新社長・内藤祐次のもと、いざなぎ景気と呼ばれる好景気と国際化の時代にあって、1969(昭和44)年にエーザイは国内業界第6位にまで成長した。ところが、1970年代に入ると、構造不況や資本取引の完全自由化による多国籍メーカーの国内市場参入、そして1973(昭和48)年に勃発した石油ショックの影響を受け、日本国内は低成長時代へと一気に転換し、エーザイの成長にも影を落とすことになった。

その中、コエンザイムQ10を原料とする新薬、代謝性強心剤『ノイキノン』が、10余年の研究活動を経て、1974(昭和49)年4月に新発売された。『ノイキノン』は、心臓の収縮に必要なエネルギーを増やすことで低下した機能を改善する、新しいコンセプトに基づいて開発された薬である。当時、全く新しかった作用機序は、営業努力の結果、次第に臨床医の間に理解が広がった。『ノイキノン』の登場によってエーザイは循環器領域へ参入、国内低成長時代を乗り越え、更にその後の経営も支えることになる。