エーザイの歴史70th - History of Eisai -

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エーザイの歩み - 第3章 - 経営基盤の確立 [1955(昭和30)年~1965(昭和40)年]

世界に通じる医薬品メーカーをめざし、月商を一気に3倍にする計画を打ち立てた。

『チョコラ』などのヒット商品の開発により、戦後の混乱期を乗り越え、急成長を遂げていったエーザイは、その売り上げ規模では、まだ新興の医薬品メーカーにすぎなかった。

1956(昭和31)年、さらなる飛躍をめざして、エーザイ初の長期計画「三六計画」が発表された。それは、1960(昭和35)年度までに月商を3倍にするというものだった。三六計画は、創業者・内藤豊次が、海外視察を経た経験から、将来世界の医薬品メーカーと肩を並べるべく、月商100万ドル=3億6000万円をめざしたことにちなんで名づけられた。

三六計画と次期計画の2期におよぶ長期計画で、売上高は3年ごとにほぼ倍増の成長を遂げ、国内の医薬品業界の売上額において念願のベスト10入りを果たし、名実ともに中堅医薬品メーカーとしての地位を確立した。この期間、エーザイは、近代的製薬産業としての人材育成、施設の拡充、各部門の組織化など、健全な企業体制を整え、東京・大阪の株式市場に上場し、資本の公開に踏み切った。

創業精神を具現化したシンボルマーク。
各部門の自主運営と結束を示す社内の旗印となった。

「エーザイ・マネジメント・コード」と創業精神を発表。各部門の自主運営と結束を示す旗印のもとに。

長期経営計画がスタートしたことを転機に、エーザイは創業者個人に頼る経営体制から脱皮し、各部門の自主運営による組織経営体制へと転換を遂げていった。

1960(昭和35)年には、新たな経営憲章である「エーザイ・マネジメント・コード」が発表され、この憲章の中に社と社員のバックボーンとなる「創業精神」が謳われた。

“よい研究からは、よい製品ができる。よい製品によいプロモーションをすれば、よい利益を生み出す。よい利益があがれば、社業はよく発展し、社員もよい給与で報いられる。よい製品をつぎつぎと考え出し、よい品質を売りものとし、良心的でしかも巧みなプロモーションで普及をはかり、世界の国々の多くの人々の健康福祉に大きく寄与することが、エーザイの創業精神である。”

1962(昭和37)年には創業精神を具体化したシンボルマークが制定された。M(Management 経営本部)を中心に、P(Promotion 販売)、Q(Quality 品質・生産)、R(Research 研究)がそれぞれ独立した組織として機能するという、組織のあり方を示した旗印であった。エーザイは、各部門が業界トップレベルをめざす“トップP・Q・R・M”の合言葉のもと、恒久的な成長に向けた重要な転換期を迎えた。

1966(昭和41)年、川島工場の開所式。
40万㎡の敷地を持つ公園工場(Industrial Park)に来賓600人が集った。

生産力を強化するべく、“公園工場”を岐阜県の川島に竣工。

エーザイの活動の舞台を世界に移すための足場固めとして、生産力の強化と品質管理の向上を推し進めたのもこの時期である。設備の拡張を進めてきた埼玉県の本庄工場では、近い将来に用地が不足すると判断し、新工場新設に適した土地を探し始めた。

新工場の構想を練るため、創業者・内藤豊次は自ら欧米視察に出かける。視察の中で、米国各地につくられた公園工場(Industrial Park)の、広々とした芝生や森の中にきれいな研究所や明るい工場が点在する美観に感銘を受け、それらを実現する理想的な建設候補地として、岐阜県の「川島」に注目し、1966(昭和41)年、「川島工場」が竣工した。

TOPICS

川島工場にある、自然の松林と池を配した日本庭園。

緑豊かな工場をめざして。

川島工場が開所当初から取り組んできたのは、生産工程で使用する大量の水を、責任を持って浄化して自然に還し、豊かな自然環境を守ることでした。工場排水は、国の排水基準の10分の1以下にまで浄化され、日本庭園内の池を通って木曽川へと還元されます。同時に、緑豊かな工場にすることをめざしてきました。「木を1本切ったら、3本植えよ」という創業者・内藤豊次の教えを受け継ぎ、自らの手で黒松の苗木を育成しています。さらに、環境負荷の低減と省エネに貢献するコ・ジェネレーションシステムを導入したほか、焼却炉の廃止、伐採樹木の有効利用など各方位から環境配慮を推進し、創業者の想いを継承しています。